2007年 04月 15日
明治初頭の海上交通事情
昭和63年発行の串本町史(史料編)を読んでいたら
886ページに興味深いことが記されていましたので引用させていただきます。
「串本町誌」より 神田佐一郎談話として
明治八,九年の頃でした。私の父(神田文左衛門氏)が例の串本対上野の境界問題で、内務省か司法省か、から呼出されたので急に上京の必要が起りました。処が、何しろ当時の事ですから、東京行の汽船に乗ろうと思へば神戸まで行かねばならず、それも七日か十日かに一回位の便であったし、神戸へ行くにしても神戸までは陸を歩くか和船便によるかの外はなく、色々考へた末、遂に樫野の灯台番が心易い間柄であったので、樫野から外国船に乗せてもらはうといふことにしたのです。当時私はまだ十歳余の子供でしたが、私は父を樫野まで送って行きました。
樫野の灯台へ行って待ってゐると、丁度どこかの外国船が一隻通りかかったので、早速灯台から信号して停船して貰ひました。そして父は予め灯台下に用意しておいた漁船に乗り、八挺櫓を立て全速力で外国船に漕ぎつけ、便乗を請い横浜まで無賃で連れて行って貰ひました。今から思ふとまるで嘘の様な話です。
私はそのとき行ったきり今に樫野へは参りませんが、灯台は今でも大して変わってゐないさうですね
886ページに興味深いことが記されていましたので引用させていただきます。
「串本町誌」より 神田佐一郎談話として
明治八,九年の頃でした。私の父(神田文左衛門氏)が例の串本対上野の境界問題で、内務省か司法省か、から呼出されたので急に上京の必要が起りました。処が、何しろ当時の事ですから、東京行の汽船に乗ろうと思へば神戸まで行かねばならず、それも七日か十日かに一回位の便であったし、神戸へ行くにしても神戸までは陸を歩くか和船便によるかの外はなく、色々考へた末、遂に樫野の灯台番が心易い間柄であったので、樫野から外国船に乗せてもらはうといふことにしたのです。当時私はまだ十歳余の子供でしたが、私は父を樫野まで送って行きました。
樫野の灯台へ行って待ってゐると、丁度どこかの外国船が一隻通りかかったので、早速灯台から信号して停船して貰ひました。そして父は予め灯台下に用意しておいた漁船に乗り、八挺櫓を立て全速力で外国船に漕ぎつけ、便乗を請い横浜まで無賃で連れて行って貰ひました。今から思ふとまるで嘘の様な話です。
私はそのとき行ったきり今に樫野へは参りませんが、灯台は今でも大して変わってゐないさうですね
by umikongou
| 2007-04-15 20:38